覚明行者は俗名を源助 出家して僧となり台密二教を修め、深く御嶽山神を尊崇し、木曽に巡錫して多くの信徒を得、巡拝行脚の道中、御嶽の山容を拝し開闢の念を固めるとともに、霊峰たる由縁の御神威を示せとの神告を受け岐阜の恵那山で修行し、御嶽山黒沢口開山に向け動き出した、その時68才の老境であった。
御嶽登拝は一部道者のみの重潔斎を持って登拝が許されるのに対し、覚明行者は軽精進による一般者の願っていたが、天明五年(1785年)夏に御留山でもある御嶽へ無許可で、自ら先達となり、多くの信徒を連れて黒沢口より頂上登拝を決行し、従来とは異例の信仰を築いたのである。
しかしながら世の中から迫害にさらされる一面も兼ねていた事は云うまでもないのである。
行者は再三に渡る厳しい詮議を受けながらも黒沢口登山道の改修に老骨に鞭うちながら御嶽解放の日を願った。
月日の経過と伴に協力者も増え難行も急展開に向ったが、大事業完遂目前に、九合上二の池ほとりで病に伏し諸人救済を誓言しつつ壮絶な立ち往生を遂げられたのである。
後に信者たちは遺志を受け継ぎ、黒沢口登山道を見事に完成させてのである。
覚明行者は生涯を御嶽の解放と、登山道の改修に捧げた処多くを布教する事なく一生を閉じたので、後世その遺徳を慕う弟子達が信者を結集して「覚明講」を創設し、近代御嶽信仰の繁栄に尽くしたのである。 |