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普寛行者
出身地:武州秩父郡大滝村落合
(1731年〜1801年)

普寛行者は木村家・父 信次郎の五男として生まれた。名を好八と呼んだ。家系は剣術家の家(秩父神蔭流、その時代は直神蔭流と名乗っていた)で剣道を父より指南されていた。学問(漢字)は三峰山で習得し、幼少より器量が群を抜いていた。若き好八氏は木村左近と号し剣術の雲集をかかえきれぬ程したがえていた。

好八氏は24才の時遠縁の江戸 浅見家の養子となり浅見好八と名乗り、八丁堀の「とき」と云う人を嫁に貰ったが子供に恵まれず女の子を養子としたが夭折してしまった。
好八氏は江戸の五人の剣客と言われる程であった。

ある日、故郷三峰の雲寺別当日照法印が江戸の三峰講を廻って、浅見家に立寄った折、好八氏を見て「貴方は剣を以って世を過す人ではない、数珠を持って人心を救う人である、と感じたが如何なものか」と申された。日照法印は霊感で好八氏の器量を見抜いたものである。
好八氏は深く決する所あって、妻と相談し同意を得て藩主に申し出て脱藩して故郷へ妻と伴に帰った。妻を実家に預け雲寺に日照法印を尋ね、得度式を済ませ笈を負って諸国修行に旅立ったのである。一大決心の元、名も新たに本明院普寛と改めての姿であった。

先ず「役行者」の足跡を慕い木食行を始めたのである。
天台密法は日照法印より、真言密法は秩父両神金剛院修験道場の金剛院十二代修験法印薄平梅永行者から受けた。梅永はその後の普寛行者弟子の金剛院順明の祖父である。
神道は三峰神社で習得したのである。

普寛行者は奥羽地方、関東、中部地方、関西地方、と巡行を進め、様々な修法・行方を見聞・習得し、37、38才の頃、後に御嶽山独特の神仏感応の格段の行法につながる妙法をあみだしたのである。
しかし、普寛行者の御嶽山開闢の思いは、その後のことであった。

木曽御嶽山を開闢するきっかけと成ったのが、四国霊場行脚の時であった。
「普寛行者、遇々四国行脚の折、真に不思議な僧に会う、同行する事三日に及ぶ。僧曰く『貴僧は珍しき行者なり、体格よく、頭脳明晰で、修法力も抜群である。貴僧の器量にて人助けせば、永く済度する事が出来るであろう。日本で灼な神が鎮まりたまう山で未だ開かれていない名山がある。その山の名は木曽の御嶽である。貴僧は此の山を開き、万民救済に努め永く後世に至りてもその貴僧の思いは伝燈として受け継がれるであろう。』と云い残し去って行ったのである。」(開闢記より)

普寛行者が不思議な僧に会ったのは50〜52才頃であり、京都聖護院派(修験道天台系)の修験長に成ったのも其の前後である。木曽御嶽開闢に向け一念を燃やす諸国行脚に明け暮れる未だ花の咲かない苦労の後ろ姿であった。
(この時の普寛行者の想いを理解せねば、御嶽行者としての伝燈伝流を伺い知る事は難しいと今でも重要視されている。)
後に、この四国であった僧というのが「高野大師(弘法大師)の霊体」であった事が神勅によって普寛行者に明らかになったのである。(行者53・54才頃の事である。)

普寛行者は諸国行脚を終へた時には、既に御嶽独特の行法を完成させて居り、あまたの人々の救済活動に受ち込む日々であったのである。そして人助けに専念する内に、普寛行者を応援する人達が増えて行き、信者の層を厚くして行ったのである。
普寛行者は布教活動する中で信者の資金応援もあり、次第に木曽御嶽開闢の念を強めるのであった。その準備期間に7〜8年を要した。

秩父教会勧請 普寛行者像全て万端整い木曽御嶽開闢に向けて出発した時は、寛政4年5月初め普寛行者61〜62才であった。
この時、同行したのは、弟子4人であった。
木曽へ到着し、一行が開闢登山にに入ったのが同年6月8日荒れ模様の天気であった。茂った雑草木・蔓を鎌・ノコギリで折り切り、所々に神仏を鎮祀して行った。本山に入るまで2、3日を要し、御嶽山の本山へ登り始めた時は雨と霧で山中一泊をして、そして、6月11日夜が明けた、辺り一面霧の世界で、目前も判らない程であった。と、そこへ一羽の雷鳥が現れ雷鳥に先道されながら途中途中各々神々を鎮魂し頂上へ達したのである。
その時行者が鎮めたのは「御嶽山座王大権現、八海山提頭羅神王、三笠山刀利天宮」とする御三神で、国常立尊、大已貴命、小彦名命を御嶽大神と称するのは後に神道式に祀ったものである。

晴れてここに普寛行者は弟子4人と共に長年の夢であった霊峰の中の霊峰木曽御嶽山の開闢を成し遂げたのであった。

そして、寛政5年、寛政6年は普寛行者のみ登拝をして村民の応援を得て、登山道の整備に専念した。
信者、世話人の登拝同行が始ったのは寛政7年からであり、これより後、一般庶民の願う処の御嶽信仰が開かれていったのである。

その後、普寛行者は、毎夏木曽御嶽登拝を弟子や信者と共に参拝し、その間は諸州を行脚し悩み苦しむ多くの人々を救い導いていったのである。
そして、享和元年九月十日に本庄宿の世話人・米屋弥兵衛方で多くの弟子と信者達に見守られ72才の大往生を遂げたのである。その時施主をつとめたのは、近隣にあった若泉山安養院無量寺の文竜上人が引受け 朝夕懇ろに供養を手厚くされた。

以上、普寛行者の偉大な一生は、今も伝記として残されている。

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