木曽御嶽山開闢された普寛行者の愛弟子である方が順明行者である。名を薄平順明と申し真言宗の寺に生まれた。
薄平家の先祖は平家の流れと云われ、真言密教たる金剛院修験道場を祖始された。今から五百余年前の事である。
この五世紀に亘る金剛院道場の歴史の中で特筆すべき方が「金剛院順明行者」である。
特に普寛行者が金剛院道場で順明行者の祖父・金剛院梅永阿闍梨師につき、猛烈な修行をした事に二人の関係が始るのである。普寛行者が、この金剛院で真言密教体得に励む中で「順明少年」の資質を見込んだ。その時、普寛行者41才、順明行者13才であった。
順明行者は桃園天皇の宝暦5年に誕生され、幼少期より「学問と信仰」に厚く、普寛行者とは自然の流れの中で師弟の関係が結ばれてたのであった。常に普寛行者に従い、修験密教の行法を磨き影の形に添う如く、順明行者は同行したのである。
順明行者は、24〜25才位の時には金剛院の15代目の当主となって居り、金剛院での信者への祈祷、並びに道場への修行者の面倒等、多忙な立場を過ごしていたのである。特に金剛院家は13代梅永師より16代目までかなり道場は栄えてのである。
この順明行者という方は、学識に秀れ書も数々の名筆を今に残して居る。
又、行績としては木曽御嶽山開闢の折、普寛行者の弟子として供につき開山に身魂を注がれ後に一般の御嶽登拝が盛んになると、木曽に出張して登山各々の講や先達の面倒と世話並びに実務に尽くされた。
又、夏山以外の時は秩父両神山金剛院道場・本庄普寛堂・上州の高崎・大胡・藤岡等、本庄を中心とした講中の発展に努力をした。特に木曽でも各地方に於いても、大変に人柄円満な方で、信頼が厚かった話が語り継がれて居る。
特にこの事は特徴とすべき重要な点であって、順明行者は普寛行者の弟子の中でも、誉れ高き円満な人格の持ち主であった様である。
「如何に荒行に励んでも、又行法を鍛練しても其の人が円満(只、人が良いだけでなく、周囲から信頼される事)な人柄にならなければ信仰は成立しない」と云う事を知り得ていた方である。
よって御嶽信仰はもっとも「所求円満(しょぐえんまん)」という事を大切にしなくてはならないのである。
順明行者は木曽御嶽山開闢の折、普寛行者の供について登拝した時は、34才の頃で、晩年に至る迄の間に、御嶽登拝39回、和歌山野山登拝12回、四国霊場巡拝7度、と金剛院家文献に伝わっています。
特に野山と四国巡楊(じゅんしゃく)の行跡の厚さに、順明行者が如何に「弘法大師」の密教に関心をいだいていてかと云う事を伺い知る事が出来る。
正にこれは 師・普寛行者の伝燈(行法と思想)をそのまま受け継いだ事を意味しているのである。
順明行者は、天保9年(1838年)3月6日、本庄普寛堂で84才で没した。老衰であった。
順明行者は普寛行者と同じ安養院にて手厚く供養され、施主は順明行者の子である、寛明行者がつとめ、天保9年11月に墓建立した。墓は五輪宝篋印塔であり、普寛行者と泰賢行者(順明行者の兄弟子)と同様式で今も本庄普寛霊場内に祀られており、参拝に来る人々を守り続けております。 |