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御嶽教とは

[○木曽の御嶽] [○御嶽信仰の発生] [○御嶽信仰の開花] [○立教の歩み]

○木曽の御嶽
木曽御嶽山です
御嶽教発生の霊地であり、宗徒各々が修行の根本道場とする神山(かむやま)が「霊峰木曽の御嶽山」である。
岐阜県と長野県の境である、北アルプス連峰南端に位置し、標高3,063.4mである。独立峰としてそびえるその容姿は、かつて別の名を「王の御嶽(おうのみたけ)」と呼ばれる由縁を残して居る。山名は「御嶽」と書いて「おんたけ」と読むのが正式名称とされるが、古書・伝承によると、昔は山麓周辺の住民各々から「おのたけ」又は前記の如、「王の御嶽」と尊称されていたが、誰となくいつともなく「おんたけ」と呼ばれるに至って居る。特に近世に入り、御嶽信仰が全国的に広義された事にともない、これが通称となったのである。したがって「御嶽」に「山」の字を付して「おんたけさん」と呼ぶのは、御山への親しみを込めた愛称とみるのが自然の姿に感じられる。

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御嶽教とは

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○御嶽信仰の発生
両神山より木曽御嶽山を望む御嶽信仰の発祥の源流をたどれば古代の山岳崇拝の思想にさかのぼり、神代(かみよ)の時代に山そのものを神とあがめて崇拝した原始宗教に端を発し、その後大和の「役の小角(えんのおづぬ)行者」を開祖とする修験道と結びつき、一時代を画したが、修験道の退潮とともに、新たな先祖信仰、民族信仰として台頭し広く人々の信頼を集めて、独自の御嶽信仰の形成を観るに至ったのが、御嶽信仰発祥の定説となっている。

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○御嶽信仰の開花
普寛行者200年祭の風景木曽の御嶽は世俗の安息を求める心の故郷とされていたが、近世中期までは厳しい戒律の山であり重潔斎を済ませた「道者(どうじゃ)」以外は軽々しく足を踏み入れる事は許されておらず、一般庶民の信仰は自由にならぬものであった。
更に、徳川将軍家が国政を掌握してから後は、木曽谷一帯が御三家尾張大納言家の所領となって国防と山林保護の藩政上の見地からいわゆる「御留山(おとめやま)」として支配され、それまで以上の一般登山を厳しく禁止したのである。
しかしながら、古来より人々の尊崇のやむところない神山故、民衆の御山解放の声は高まり、御嶽信仰に厚い願いが集った。
その時の中で、万民救済の念を決意し、立ち上がったのが尾張の「覚明行者」と武蔵の「普寛行者」である。
この二人の行者の難行苦行により、御山は民衆に開かれ、この後、江戸末期から明治初期にかけて、猛烈な勢いをもって全国に浸透したのである。

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○立教の歩み
御嶽教本部(奈良大和本宮)時は移り江戸が東京と名を改めた明治維新の背景に政府の打出した「神仏分離令」の布告に影響を端し、今まで大衆の心に根ざした純心・素朴な両部神道たる「御嶽講」は明治15年に「神道御嶽派」として独立を許された。
そしてその後、教名の変更を請願した結果同年11月6日政府の認証を得て現在の「御嶽教」と改称されたものである。
<<< 大御神火祭のお知らせ >>>
毎年度木曾御嶽山の中腹で行われる御嶽教大本庁主催の大御神火祭です。

令和5年の火祭の情報です。
第70回 御嶽山大御神火祭
日時
田の原祭場
 令和588日()
  午前1時〜

木曽本宮祭場
 令和588日()
  午後8時〜
  松明行列
   午後7時30分〜

主催
 御嶽教大本庁
共催
 御嶽教全国教会
 御嶽教全国布教所
 御嶽教全国講社
奉仕団
 (木曽本宮祭場)
 御嶽教千葉茨城県教区
 御嶽教全国教会
 御嶽教全国布教所
 御嶽教全国講社
 (田の原祭場)
 御嶽教全国教会
 御嶽教全国布教所
協賛
 木曽御嶽奉仕会
 王滝村
 木曽おんたけ観光局
 木曽町

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